メロンダウト

メロンについて考えるよ

宇崎ちゃんを考える2~当事者ほど厄介な者はいない~

宇崎ちゃんが性的かどうか、個人的な観点だけで言えば十分に性的であり同時に過不足のない性的魅力度なのであのくらいなら公的なものたりえるように見えます。

この騒動についていろいろ見ているとなにか性的なものは公的たりえないみたいな意見を見たりしますけど性的であり同時に公的な表現も成立すると僕なんかは思っています。教育的で適度に性的刺激を喚起するようなものであればそれは公共的である。宇崎ちゃんがそれにあたるかはわかりませんが。

 

ところで僕はフェミニストではないしあるいは名目上の男女平等というものにも懐疑的です。なので宇崎ちゃんの騒動を傍目から見ていました。ややもするとどうでもいいとすら思っている。

どうでもいいと書くとなら言及するなと言う人がいますけどそうやって当事者同士、権利者同士で対立構造をつくって閉じてしまうことがむしろ問題です。ざっくりとした対立構造として表現の自由VSフェミニストになっている今回の騒動ですがそこまで喧々諤々として語るようなものではないように思えてならないのです。今回の件で誰が当事者かと言えば当該ポスターを見て献血に行く人あるいは行かなくなる人ですが、それ以外の人にとって今回の件は本来、他人事であるはずだし他人事として考えるべきです。

 

公共スペースに宇崎ちゃんのポスターが貼られているのを見て不快に感じるというのであれば実際には単に離れればいい。宇崎ちゃんを公共的だと認めるとフェミニズムが目指す世界にとって不都合であるわけでもないでしょう。そこまで影響度の高いものだとは思わない。むしろグラビアアイドルやAVこそ女性を女体として消費しているわけでそこに一切の人物性を認めていないルッキズム全開の産業だと言っていい。いっぽうの宇崎ちゃんは性的な魅力よりもむしろウザ絡みして挑発してくるその人物性により献血のポスターに採用されたと考えられるわけで、そうなると宇崎ちゃんを性的なものとして考えているのはどちらかなんて議論にも当然なる。

 

しかしそんなことはどれもどうでもいいです。今回の騒動で何が最も大きな問題かと言えば本来、他人事であることを過度に当事者として考える当事者意識にこそあると考えています。

大きな違和感として当事者意識が良いものとされている感じがあるんですよね。相手の立場になって考えろとか相手の気持ちを尊重しろとか多様性とかあるいはすべてのことは当事者であるとか、そういう諸々の良識とでもいうんでしょうか。そういうものが人間を過度に押し込んで物事を冷静に見えなくしている。

宇崎ちゃんの件で言えば表現者全員が当事者であるとか女性全員が当事者であると拡大解釈して問題を大きくするのでしょうけど、そうやって他人事化を許さないなにかがいる。たとえばこのブログも自分では表現物なんて代物だと思っていないわけですけどこの駄文ブログを仮に表現物とするのであれば僕も表現者の一員となる。しかし僕はそんなことは微塵も考えていません。すべてのことを当事者として考えるは一見、すごい真摯な態度にも聞こえますけど本来そんなに良いものではありませんよ。

 

当事者として考えれば気に食わないものは存在すること自体を許せなくなります。仮に住んでいる家の中に知らない誰かがいるとすればその人の善悪判断をする前に存在自体を不気味がります。僕たちが他人にたいして他人として尊重できるのは外部に存在するからであって当事者として家の中に入れたらもう善悪判断なんか棚上げして出ていけとしか思えなくなる。

そのぐらい当事者意識ってのは危険なんですよ。今のラディフェミなんかもそうやって過度な当事者意識のすえにすべてのことを当事者的にジャッジするから変な方向にいく。外でやっていることなどすべて他人事として考えるべきだし他人事として判断するからこそ、その事物の善悪判断が可能なんですよ。

宇崎ちゃんも所詮、外部に存在していて自らとはまったく関係ないことです。ことさら自分は低血圧で献血できないのでまったく関係ありません。学生のころに400ml抜いたところでフラフラして止めてもらったことがあります。

 

表現者なので表現の自由を守るなんてことも今回の騒動には事実上、関係ありません。ああいう絵を書いてはいけないという法律ができたら問題ですけど今回のように表現物を受け入れてくれない個人が複数人いるぐらいは当然の出来事でしかない。表現の自由は表現する自由であって聞き入れてもらう自由ではない。表現そのものを規制した愛知トリエンナーレのような件だとまたすこし話が違ってきますが、今回の件は自由に表現して自由な批判が飛んできただけでそれ自体は至極自然な出来事に過ぎません。あとのことは日本赤十字が業務的に判断すれば良い。

 

なによりも今回、こうして議論にして問題にすれば現実に何かが変わるだろうという目論見が見えすいているのがものすごく気持ち悪いのです。

宇崎ちゃんぐらいの性的なものを批判して結果、ポスターが撤回されればフェミニストが望む世界に一歩近づくことになります。そうして問題となりうる問題を発見して問題化することによって当事者には望んだ世界になりますが大多数であるどうでもいいと考えている我々にとっては問題を問題化するその奇異の目を意識して生活しなければなりません。

何を言えば炎上する、こういう表現はフェミニストを敵にまわす、こういう行動はハラスメントである等々無限のマナーが生産されていく。

そうして既成事実化すると当事者ではない我々に無限の配慮を要求するようになる。こういう世界なんだからこういう行動やこういう振る舞いが適切だなどなど。無意味なマナーを少数の声の大きい人間が自らのポジション取りのためにだけつくっていく。

本当にやめてくれ。というか頼むから勝手にやっててくれ。巻き込まないでくださいお願いします。

当事者ではない我々がどうでもいいことに振り回される労苦に比べれば宇崎ちゃんが性的かどうかなど

はなはだ些末でどうでもいいのです。

普遍男性論~いつから恋愛は恋愛をやめたのか~

前回記事で普通について書きましたけどいわゆる恋愛における普通についてもちょっと思うところがあるので書いていきます。

すこし前にnoteで普通の男がいないというエントリーがあがってきて大変話題になっていました。

note.mu

 

普通の男性の条件として以下のことがあげられています

・清潔感がある
・挨拶やお礼がちゃんとできる
・常識があり、人の目が気になるようなことはしない
・素直である
・人に気が使える
・計画性があり、全体のことを考えられる
・男尊女卑ではない
・話し合いができる
・尊敬できるところがある
・コンプレックスが強くない
・金銭感覚が合う

 

 

この記事を見たときに真っ先に思い出したのがアブリル・ラヴィーンのComplicatedという曲です。

www.youtube.com

歌詞にCoolでいようと振る舞うあなたが私にはとても馬鹿馬鹿しく見えるという部分があります。

I like you the way you are 私はありのままのあなたが好き
When we're drivin' in your car 一緒にドライブしている時や
And you're talking to me one on one 二人きりで話している時の
But you've become... でも あなたは
Somebody else 'round everyone else 周りにいるほかの誰かみたいになっちゃう
You're watching your back like you can't relax あなたは後ろを気にして リラックスできてない
You're tryin' to be cool かっこつけようとしてるけど
You look like a fool to me 私にはバカみたいに見える
Tell me 教えて
Why do you have to go and make things so complicated? どうしてあなたは物事を複雑にするの
I see the way you're acting like you're somebody else 他の誰かみたいに振る舞ってるのをみると
Gets me frustrated イライラする
Life's like this 人生ってそんなもの
You, you fall and you crawl and you break あなたは転んで、はいまわって、そして傷つく
And you take what you get and you turn it into honesty そうして手に入れたもので 正直な自分を取り戻す
You promised me I'm never gonna find you fake it もう自分を偽らないって私に約束した
 

引用元

歌詞和訳 | Complicated (複雑)-Avril Lavigne(アヴリル・ラヴィーン) | コンプリケイテッド - 名曲から学ぶ英単語

 

coolはかっこよくとも訳せますが普通でいよう、ふさわしくいようとも訳せます。

他の誰かみたいに普通でいようとすることをやめてもっと自由に恋愛しようが歌詞全体の意味になりますが

男性にとってこういう普通でいることへの重圧は現実にもたぶんにあって普通でいようと思うあまりにむしろ普通ではなくなるみたいな逆転現象がよく起きます。自分も感じたことがあります。すこしでも好きな人に良く見られたい。「普通」な振る舞いができる男に見られたい。ふさわしく振る舞おうとして過度に普通を着込んだ結果むしろ馬鹿馬鹿しく見られる。男性なら誰しもそんな経験があるんじゃないでしょうか。

 

だからnoteの記事を見た時に思ったのは「そんなことみんな知っているよ」でした。

というか普通に振る舞うことが「できなくなること」が恋愛ではなかったのだろうか。

仮に僕が女性に向けて恋愛のアドバイスをするのであればむしろ初めてデートに行った時に普通に振る舞うことができる男性はあなたのことが好きではないと思うよぐらいのことは言うと思います。

いつから君は私の求める君ではない、普通ではないなんてことが大手を振って言われるようになったのだろうか。少なくとも好きな人とデートしている時は普通でいることなんてできないがコンセンサスとして認知されているものだと思っていたけれどそういう考え自体がもう古いのだろうか。

 

人はみんな愛されたい。女性が化粧をして愛されるようになるのと同じように男性も女性が男性に求めるものを知っています。しかし男性のそれは女性の化粧ほど単純ではない。愛されうる人格(普通の男性像)をインストールしようとすればするほど自分の表情などとズレが生じて奇妙で馬鹿馬鹿しく見える。それはアブリル・ラヴィーンも歌っている通りです。普通の男を完璧に演じきれる人なんていない。しかしそれで良かったのではないだろうか。普通の男ではないと知っていき、普通ではない部分を正直に認めてたがいの価値を分かち合える関係性を築くことが恋愛ではなかったのだろうか。

仮に完璧に普通の男なんてものが現実に具現化したらそれこそとても奇妙なものになるに違いありません。

 

普通なんてことはみんな知っています。それこそ男性は女性が求める普通がどういうものか嫌というほど知っている。普通にかっこよく振る舞えるようになりたいと男性はみんな思っています。しかしそれができない。

できないでうまくいかないで・・・でもいつか普通なんてことができなくてもいい女性と出会い自由になれることを望んで普通ではないまま不格好に恋愛していきます。そうして普通世界の外部に価値を見つけ出す。そうした営為、そういうことが本来的な恋愛や結婚の意味ではなかったのかと僕なんかは思います。

僕自身について言えば単に「普通」なんてことを聞くと反射的になにか言いたくなる中二病なだけですのであまり真に受けないでください。

こちらからは以上です。

うつ病を考える

台風19号で家にいた時、ひますぎて東浩紀さんのゲンロン0を読み返していました。相変わらず、ツイッターで見る東さんとは違ってものすごくピュアな哲学論考でした。再読にも関わらず面白かったのですがすこし思うところがあったので記事を書いています。

 

ところでブログのURLが変わりました。遂にはてなブログPROに課金してしまった。hatenablog.の部分がなくなっただけですが一応報告ということで。

 

東さんのゲンロン0の論旨は主にこの時代の条件を再確認したうえで「どう生きればいいのか」を論じたものになっています。今までは世界と自己が地続きでいわゆる土着的な生、あるいは国家と連動した生、あるいは家族と連動した生などある程度形式的な生きる型がありましたけど今僕達が生きる時代はそうではないと書かれています。

その時代をどう生きるか、その提案として「観光客」という概念が提示されています。

観光客という概念が何かは多くの書評ブログやアマゾンのレビューなどにも書かれていることですので割愛しますが僕が気になったのはなぜ今までの生き方が通用しなくなったのかということでした。

 

 

ゲンロン0で主軸となっている参照点としてヘーゲルやルソーが挙げられています。

ヘーゲルは家族を主とした他者との関係性により自己が形成されると書いています。人倫共同体といって自然に倫理が発生する機能を持つ。しかし同時に家族のような狭い共同体においては個人は共同体のゆがみに埋没していくと書いています。それを監視する機能としての二次的な共同体として市民があり、その上にさらに高次な国家という概念が倫理を形成する概念として機能するとしました。

しかし僕達は今はそうではない。国家による倫理は機能していない。あるいは市民としての意識もない。そうして下次元化し逆流してバラバラの個人になっているとゲンロン0は確認していると読みました。

ルソーは社会契約論その他の著書において「人間は人間が嫌いでも社会をつくる」と書いています。ここが僕が気になったところです。

 

今、僕達が生きている世界におけるマジョリティーの意見としてなにか「人間は人間が好きではないといけない」というようなことを言われている気がするのです。何度もブログにも書いていることなのでもう辟易している方もいると思いますが、しかし僕個人の感覚で言えばすべてがこの好きではないといけないという強迫観念に紐づいて動いているように感じられるのです。

 

たとえばうつ病などの精神疾患等に関しても昔のほうが社会の条件的に厳しくハラスメントなどが横行していたにも関わらず鬱病が取り沙汰されてきたのはここ最近の話です。以前にも確実に存在していた鬱病が最近になって増えてきたことを単に統計の不備というにはいささか安易に過ぎるように感じます。

「適切に治療する対象として発見する機能そのものが絶望を社会から隔離している」

ようなそんな気がするのです。

フーコーを取り上げた時にも書きましたけど狂気は狂気のみで狂気と認識されることはなく狂気を発見する理性側の眼差しによってのみ私たちの世界に現れることになります。

同じようにうつを発見しそれ自体が異常だとする機能がこの社会にあるとして、それははたして本当に良いことなのだろうかと最近は思ったりします。もちろん精神はとても脆くあまりにもたやすく壊れることは経験的に知ってもいます。治療も絶対に必要です。しかしそれを判定して査定しているのは「誰」なのかという問いが残るのです。

 

 めちゃくちゃ具体的に言うと会社で暗い顔をしたまま働くことができなくなっているようなそんな気がするのです。社会人だから自己管理をしないといけない、お客さんの前では闊達でいないといけない。そんな当然のマナーが当然ゆえに当然ではない人間を許さないのだとしたらうつ病はいったいどこからきているのだろうか。

 

 うつ病の人は世界を正しく認識しているという抑うつリアリズム説もありますけど、世界を正しく認識する人間がうつ病になるのは逆説的に世界のほうが正しくないと言うこともできます。

あっちとこっちで分けられるほど単純な話ではないですし世界といっても個々人が認識する世界はあまりにも違うので一概に言えるわけではない。

しかし僕が思うに正しい世界なんていうものがあるとしたら悲しみや絶望を理解できる社会だと思います。

僕達個人は悲しい人や絶望している人がいたら同情し、寄り添うことのほうが多いと思います。しかし社会はそうではないかもしれない。やさしさを持つ個人が多数な社会があるとしても必ずしも社会の論理がやさしいとは限らない。

むしろ僕達の社会は悲しい人間がいたら機械的に治療するべきみたいな定説に支配されている。

 

 ポジティブな人間はその余力を持って働き、悲しくて生産的ではない人は休む。一見正しいその分断は同時に悲しんでいる人を社会に受容しない機能をも持ちうる。

最近、そんなことを考えます。僕はいつまで「社会人」をやらないといけないのだろうかと。学生の時みたいに授業中に寝てて仮に怒られてもそこに居続けることができたころが懐かしい。

人間は人間が嫌いでもいいし悲しい顔をしたままデスクに座っていてもいい。そういう普通の人間が普通のままいられる世界を切望します。

そういえば最近、「普通の男がいない」なんてエントリもはてなにあったね。恋愛の閾値があがっているのと同じように社会人の閾値もあがっているみたいなそんな話でした。